運営:アスタミューゼ株式会社
  • ポートフォリオ機能


追加

関連ワード 指定商品 /  不正競争の目的 /  先使用(32条) /  称呼(称呼類似) /  観念(観念類似) /  差止 /  使用許諾 /  類似商標 /  先使用権 /  継続的に使用 /  継続 /  商号 /  同業者 / 
元本PDF 裁判所収録の全文PDFを見る pdf
元本PDF 裁判所収録の別紙1PDFを見る pdf
事件 昭和 41年 (ワ) 315号
裁判所のデータが存在しません。
裁判所 静岡地方裁判所
判決言渡日 1971/03/25
権利種別 商標権
訴訟類型 民事訴訟
主文 原告の請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
全容
一、原告の求める裁判 「被告カネトク工業株式会社は履物サンダルその他の類似商品に商標「ギンレイ」「GINREI」の使用をしてはならない。被告【P1】は原告に対し金七、
七一八、二七四円およびこれに対する昭和三九年一〇月一日より支払済みまで年五分の割合に当る金員を支払え。被告カネトク工業株式会社は原告に対し金三、一八〇、九三五円およびこれに対する昭和四一年八月一日より支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決および金員支払の点について仮執行の宣言。
二、被告の求める裁判 主文同旨の判決。
三、原告の主張(一) 原告は昭和三二年一二月二三日商標登録出願、昭和三四年九月一二日第五四一、六四二号登録に係る登録商標「銀嶺」(指定商品は鼻緒その他大正一〇年法分類六一類に属する商品)の商標権者であり、昭和三五年一〇月三〇日まで主として履物等に同商標を使用していた。その後原告の取扱い商品の変更により昭和三五年一一月一日以後は大阪市<以下略>有限会社銀嶺ゴム工業所に右登録商標の使用許諾を与え、右会社は右登録商標の使用を継続している。
(二) 被告【P1】は昭和三四年九月ごろより三九年九月末日まで、被告会社は昭和三九年一〇月一日より現在に至るまで、いずれも履物サンダルおよび類似商品に商標「ギンレイ」「GINREI」の使用を継続したものであるが、右各商標はその称呼において前記登録商標「銀嶺」と類似するものであり、前記商標権の権利範囲に属するものである。
被告会社は被告【P1】の個人営業を受け継いで昭和三九年一〇月一日設立され、当初ギンレイ株式会社と称し、昭和四一年一二月七日商号変更によりカネトク工業株式会社と称することになつたものである。
(三) 被告らは右のとおり原告の商標権を侵害してその商品を販売し、次のとおりの純売上高をあげた。
被告【P1】につき昭和三五年度 二一、〇〇一、〇七五円同 三六年度 四、七〇五、七二九円同 三七年度 六一、六〇一、一四八円同 三八年度 八九、五六二、一八二円同 三九年度(一月から九月まで) 八〇、四〇五、六八七円合 計 二五七、二七五、八二一円被告会社につき昭和三九年度(一〇月から一二月まで)二八、二二九、二五一円同 四〇年度 七七、八〇一、九二五円合 計 一〇六、〇三一、一七六円 右売上高中の純利益分は、少なくとも売上の三パーセントにのぼるとみられるので、結局被告【P1】は金七、七一八、二七四円被告会社は金三、一八〇、九三五円をそれぞれ下らない利益をおさめたことになる。
被告らがおさめた右の利益金額は、商標法第38条により、原告が被告らの右侵害行為によつて受けた損害の額と推定される。
(四) よつて原告は商標権にもとづき被告会社に対し商標「ギンレイ」「GINREI」の使用差止を求めると共に、被告らに対しそれぞれ前記の金額を、右各損害の発生後の日である。被告【P1】につき昭和三九年一〇月一日、被告会社につき昭和四一年八月一日から各支払済みまで、民事法定利率年五分の割合による損害金を加えて支払うことを求め、本訴におよんだ。
(五) 被告らがその商標について先使用権を有するとの主張は否認する。
被告【P1】は昭和三四年九月ごろから履物サンダルおよび類似商品に商標「ギンレイ」「GINREI」を使用しはじめたのであつて、それ以前には右商標の使用はしていなかつたのである。そして右商標の使用が不正競争の目的で悪意でなされたことはもちろんである。
仮に被告【P1】が原告の商標登録出願日以前に右商標の使用をしていたとしても右登録出願の日である昭和三二年一二月二三日以前に、被告【P1】の右商標が同被告の業務にかかる商品を表示するものとして需要者の間に広く認識されていた事実はないから、被告らはいずれにしても右商標について先使用権を有するものではない。
四、被告の答弁および主張(一) 原告の主張(一)の事実は知らない。
同(二)につき、商標「ギンレイ」「GINREI」が原告の商標権の権利範囲に属することは否認するが、その余は認める。
もつとも被告【P1】は昭和三一年以降右各商標の使用を継続していたのであつて昭和三四年九月になつてはじめて使用したのではない。
同(三)のうち純利益が少くとも三パーセントにのぼるとの点は争う。
(二) 仮に被告らの商標「ギンレイ」「GINREI」が原告の商標権の権利範囲に属するとしても、被告らは次のとおり右商標につき商標法所定の先使用権を有する。
1 被告【P1】は昭和九年一二月から下駄の製造販売を業としていたが、昭和三一年から木の台にビニールを貼つたり、巻いたりしたサンダルの製造をはじめ、次第に下駄の製造を減らし、昭和三二年夏ごろにはサンダルの製造販売のみを業とするようになつた。
2 被告【P1】は下駄の販売においては、【P1】商店なる商号で製品を販売し、個々の製品に商標を附することはしなかつたが、サンダル等の製造販売をはじめてからは、個々の製品に「ギンレイ」「GINREI」なる商標を附するようになつた。
3 そして、原告主張の登録出願の日である昭和三二年一二月二三日以前から、被告【P1】の製造販売するサンダル等の商標「ギンレイ」「GINREI」は、全国各地の履物の製造業者、問屋、小売店等に宣伝され、広く認識されていた。当時少なくともサンダル等については、他に「ギンレイ」「GINREI」なる商標を附して製造販売している者はなかつたので、静岡地方、大阪地方はもとより全国各地の履物取引業界において「ギンレイ」「GINREI」なる商標の附されたサンダル等は被告【P1】の製品であることが通念となり、容易にその出所を識別された。
4 昭和三二年一二月二三日に原告がその主張にかかる商標登録の出願をしたことを被告【P1】は全く知らなかつた。
その後も原告の商標の附された商品(特にサンダル等)は取引業界になかつたので、被告【P1】が原告の商標を知る機会はなかつた。
すなわち被告【P1】の商標使用は何ら不正競争の目的に出たものではなかつた。
5 したがつて被告【P1】は旧商標法(大正一〇年法律第九九号)第9条第1項にもとづきサンダル等につき前記商標を使用する権利を有していたところ、右使用権は現行商標法(昭和三四年法律第一二七号)施行の日(昭和三五年四月一日)から、同法第32条第1項にもとづく使用権となつた(同法施行法第4条)。
6 昭和三九年九月末ごろ被告【P1】はその個人営業を新たに会社組織とすることにし、同年一〇月一日被告会社を設立し、被告【P1】がその代表取締役となり、被告【P1】の妻子が取締役となつた。
被告会社は被告【P1】の資産負債および取引先との取引上の地位その他営業関係一切を承継した。
よつて被告会社は被告【P1】と同様、前記商標の先使用権を有することとなつた。
(三) 仮に被告らの先使用権が認められないとしても、原告はサンダル等を何ら製造しておらず、少なくとも取引業界においては全く販売されていない。
したがつて被告らの製品の販売によつて原告製品の販売が妨げられたということはなく、原告には何らの損害も生じていない。
(四) よつて原告の請求は、いずれも失当である。
五、証拠(省略) 理 由一、原告主張(一)の事実は、成立に争いのない甲第一号証、第二号証の二、第三号証の二、証人【P2】の証言および原告代表者【P3】尋問の結果によつて認めることができる。
同(二)の事実中、被告らが原告主張の期間それぞれ履物サンダルおよび類似商品に商標「ギンレイ」「GINREI」(以下場合により本件商標という)を使用したこと、被告会社が被告【P1】の営業を承継して昭和三九年一〇月一日設立され、当初ギンレイ株式会社と称し、昭和四一年一二月七日に現在の商号に変更したものであることは、当事者間に争いがない。
二、被告らは、本件商標が原告の登録商標「銀嶺」の商標権の権利範囲に属することを争うので、この点について判断すると、「ギンレイ」「GINREI」と「銀嶺」とは発音が全く同じであるばかりでなく、「ギンレイ」「GINREI」のあらわす観念が、雪におおわれた山岳、すなわち漢字の「銀嶺」そのものであることは、検乙第一号証、第五号証、第七号証の検証の結果からみても明白なところであるから、本件商標は右登録商標に類似するものというべきである。
三、そこで次に被告らが本件商標について先使用権を有するという被告らの抗弁について判断する。
(一) 成立に争いのない乙第六三号証の一ないし五、第六四号証の一ないし一五、第六五号証の一ないし二一に、証人【P4】、同【P5】、同【P6】の各証言を綜合すると、次のような事実が認められる。
(イ) 静岡は大正時代以来塗下駄、焼下駄の産地として知られていたが、昭和二五年ごろから、従来の二枚歯、鼻緒付きの下駄に代わるものとして靴下のままはける突つかけ式の木製サンダルが作られはじめ、モード履と呼ばれ、間もなく市場の大勢を制するようになつた。
昭和二八、九年ごろはモード履の全盛時代で、木製の台をビニールでくるんだビニール巻サンダルや、プリント柄の布地等を張つた布張サンダルが登場し、意匠、
デザインに工夫をこらす傾向が広まつた。このころから静岡の業界では、各製造問屋が自己の製品に固有の名称をつけ、個々の製品や出荷用の箱にそのマークを附して宣伝につとめるようになつた。
(ロ) 昭和三〇年頃から、従来の木材を主体としたサンダルに代わつて、ビニールを主体としたサンダルが関西方面で生産されて急速に市場に出まわり、静岡のモード履を圧迫するようになつた。
静岡の業者はこれに対しモード履に一層新資材を取入れ、加工面にいろいろな工夫を加えて時代の要求にこたえようと努力したが、完全なビニール製品に対抗することができず、昭和三一年秋ごろから静岡でも木材の使用をやめて全面的にビニール類を用いたいわゆるケミカルサンダルの生産に転換しようとする試みがなされ、
昭和三二年二月の静岡履物見本市に【P5】が新たな試作品を出品したのをきつかけに、同年中に市の工芸指導所を会場として神戸から招いた技師の指導による技術講習会が催され、新製品への転換が促進されることとなり、その後数年のうちにケミカルサンダルが静岡履物業界の主力商品となるに至つた。
(二) 証人【P7】の証言により成立が認められる乙第二〇号証、証人【P8】の証言により成立が認められる乙第三六号証の一ないし四、証人【P6】の証言により成立が認められる乙第三八号証の一ないし三八、証人【P9】の証言により成立が認められる乙第三九号証、証人【P10】の証言により成立が認められる乙第四〇号証の一ないし二八、同二九ないし三三の各一二、同三四、同三五の一ないし三、同三六ないし四三、証人【P7】、同【P8】、同【P6】、同【P9】、同【P10】、同【P11】の各証言、検乙第三、四号証の検証の結果を総合すると、次のとおり認められる。
(イ) 被告【P1】はかねて静岡の特産である塗下駄、焼下駄の製造販売を業としていたが、業界の大勢に順応して昭和二五年ごろから木製サンダル(モード履)を主として扱う方向に転じ、昭和二九年ごろからは布張サンダル、ビニール巻サンダルなどの当時の流行商品を同業者と競つて生産販売している。
その製造については、工程の大部分を外註に頼り、約三〇軒の下請業者を持つていた。
(ロ) 前記のようにそのころから静岡の履物業界では各業者が自己の工夫した製品に固有の名称をつけて、各自その特色を宣伝しようとする傾向が著しく、被告【P1】も自己の製品に適当な名称を選定する必要を感じたので、昭和三〇年の暮れに家族や従業員を集めて相談した結果、被告【P1】の娘【P12】が富士山に因んで提案した「ギンレイ」という名称を採用することとし、翌三一年二月静岡履物見本市にこの名称をつけた新製品を出品して宣伝すべく計画した「静岡の履物見本市は毎年春秋の二回催される)。
(ハ) 当時業界の主力商品の一つであつたビニール巻サンダルにマークをつけるには、マークを彫刻した真鍮製の金型にビニールを当て、ウエルダーという機械で金型に高周波電流を通して、金型の凸部が接触している部分のビニールの表面を少しとかして刻印する方法が行なわれていた。
(ニ) 被告【P1】は「ギンレイ」という名称をローマ字であらわしたマーク二種類(別紙(1)、(2)のとおり)を考案して、サンダル用ビニールバンドの製造販売を業としていた静岡化成こと【P13】に右方法によるマーク焼付を頼んだ。右の依頼は昭和三〇年一二月中になされ、【P13】は更に【P9】に依頼して翌三一年二月の見本市に間に合うように右マークの金型を作らせた。
(ホ) 別紙(1)のマークは、たすきがけに交叉させたビニールバンドの交わる部分に焼付け、バンドを互いに密着させる効果を兼ねるものであつた。
別紙(2)のマークはビニール巻サンダルの天板に焼付けられた。
(ヘ) 被告【P1】はこれらのマークをつけたビニール巻サンダルを昭和三一年二月の見本市に出品して、ギンレイサンダルとして注目を集めた(証人【P14】の証言中、右認定にそわない部分は、県外の業者である同証人が十数年前の不たしかな記憶をたどつて述べたことであるから、右認定を左右するに足りない)。
(ト) 右ウエルター加工によるマーク焼付けは昭和三一年から三二年末まで被告【P1】の註文により引続き【P13】の手で行なわれた。焼付けが済んだ天板用ビニールは別の下請業者である【P10】らにまわされ、【P10】らはこれをサンダルの台に張つて被告【P1】に納品した。
(三) 証人【P15】の証言により成立が認められる乙第五号証の一ないし三、
証人【P10】の証言により成立が認められる前記乙第四〇号証の一、証人【P16】の証言により成立が認められる乙第四九号証の一ないし六、証人【P6】の証言により成立が認められる乙第二六ないし二八号証の各二、第三四号証、証人【P5】、同【P17】、同【P10】、同【P15】、同【P11】、同【P16】、同【P18】、同【P6】の各証言を総合すれば、次の事実が認められる。
(イ) 被告【P1】は昭和三一年二月の見本市が終わつた後、同年四月から「ギンレイ」という文字を入れたシールをその製造にかかるサンダルの天板に貼つて販売するようになり、同年八月の見本市には、このシールを貼つた製品を出品した。
(ロ) 【P15】は同年三月ごろ被告【P1】の註文を受けて、金地に黒でふち取りし、中央に富士山の図案を描き、その下にギンレイと片仮名で記した楕円形のシール五万枚を印刷して、同年三月二一日に納品した。
(ハ) 【P16】は被告【P1】の下請としてサンダルの塗装加工をしていたが、同年春ごろから加工済みの布張サンダルの天板かかとの部分に右のようなシールを貼つて被告【P1】に納品した。
その数量は一日約二〇〇足にのぼつた。
【P10】も昭和三一年以来、その天板張加工をした布張サンダルに同様のシールを貼つて被告【P1】納品していた。
【P11】も【P16】と同様の下請加工をしていたが、昭和三二年春ごろから同じようなシールを貼つて納品するようになつた。
(四) 証人【P19】の証言により成立が認められる乙第四号証、第二四号証の一ないし四、証人【P8】の証言により成立が認められる乙第三六号証の一ないし四、証人【P20】の証言により成立が認められる乙第三七号証の一ないし四、証人【P6】の証言により成立が認められる乙第二一号証、第五〇号証の一、二、証人【P19】、同【P17】、同【P8】、同【P20】、同【P6】の各証言、
検乙第一号証の検証の結果によれば次の事実が認められる。
(イ) 昭和三一年二月ごろ、被告【P1】の娘【P12】が検乙第一号証の図案(上に山を二つ重ねて描き、その下にローマ字で、GINREIと横書したもの)を考案した。
(ロ) 同年二月二七日、二八日の両日、静岡市公会堂でカツテイング製版法というパラピン紙などに図案を切り抜き、その表面に絹地を張つて型紙を作り、これを塗装のはけでこすつて型抜きした部分に塗料をしみこませる方法による、新しい蒔絵加工法の講習会が催された。
(ハ) 従来被告【P1】の注文で塗下駄に蒔絵を描いていた蒔絵師の一人であつた【P19】は、この講習会に参加した直後、同年三月はじめごろ、被告【P1】の依頼で右カツテング製版法による前記(イ)の図案の型紙を作り、その後これを用いて被告【P1】製造のビニール巻サンダルの天板に右図案の塗付け加工をした。
(ニ) 右のような型紙はこの外にも作られ、【P17】、【P20】ら(いずれも蒔絵師)は、被告【P1】から与えられた型紙によつて、同様の下請加工をした。
(五) 証人【P6】の証言および弁論の全趣旨により成立が認められる乙第六号証の一ないし四、第二二号証の一ないし一二、第二五号証の一ないし八、成立に争いのない乙第六五号証の二〇、証人【P5】、同【P7】、同【P6】の各証言、
検乙第二号証、第五号証、第七号証の検証の結果によれば、次のように認められる。
(イ) 被告【P1】は昭和三一年中から製品の出荷に用いる五足入りの箱の小口に、上段に「ギンレイサンダル」と横書し、下段に山をあらわす三角形を横一列につらねた図柄の横長のラベル(検乙第五号証のもの)を貼つていた。
(ロ) 昭和三二年二月からは、一足入りの箱の小口に、山脈の図を背景としてギンレイサンダルと太字で横書したラベル(検乙第七号証のもの)を貼つて出荷に使用した。
(ハ) 昭和三一年九月ごろから、業界一般にダンボール箱を出荷に用いる傾向がふえた。
被告【P1】は同年一一月ごろから日章工業株式会社に註文してダンボール箱を作らせた。一一月には二〇〇箱が納品された。このダンボール箱にはGinrei Sandal(検乙第二号証によるもの)というローマ字がゴム判で押してあつた。
(六) 証人【P14】の証言により成立が認められる乙第一八号証の三、証人【P21】の証言により成立が認められる乙第一六号証の一、証人【P6】の証言により成立が認められる乙第一六号証の三、第一八号証の一、二、第一九号証、第三〇号証の一、第六八号証の一、二、証人【P14】、同【P22】、同【P21】、同【P18】、同【P6】の各証言、検乙第六号証の検証の結果を総合すると、次のように認められる。
(イ) 被告【P1】は昭和三一年以前から、名古屋市の池田商店、株式会社山忠商店、岐阜市の毛利商事株式会社、【P23】、【P14】、仙台市の石川屋商店、豊橋市の【P22】、東京都の片岡商店など、各地の履物問屋にその製品を売りさばいていた。
(ロ) 右片岡商店は昭和三二年当時、月々二千万円の売上高を持ち、東京一の履物問屋で、昭和三一年以来下駄の取扱を止め専らサンダル類を取扱つていた。昭和三二年夏ごろから被告【P1】製造の布張サンダル等が同商店に入荷し、それらの製品には「ギンレイ」という文字を入れたシールが貼つてあつた。
それらは前記(五)の(イ)のラベルを貼つた五足入りの箱に入れてあつた。
当時の同商店への被告【P1】の入荷高は月々約五千足、金額で三、四十万円程度であつた。
同年秋ごろからは前記(二)の(ホ)のビニールバンド交叉部分に別紙(1)のマークを焼付けたビニール巻サンダルが入荷しはじめた。またこのころから前記(五)の(ロ)のレツテルを貼つた一足入りの箱が入荷に用いられるようになつた。
片岡商店では同年の後半期から被告【P1】を指してギンレイさんと呼ぶようになつた。
(ハ) 前記池田商店では、昭和三一年中から被告【P1】の製品で「ギンレイ」のシールを貼つたものが入荷していた。また遅くとも昭和三二年三月以前から前記別紙(1)のマークをバンド交叉部分に焼付けたビニール巻サンダルを取扱うようになり、売行きはよかつた。別紙(2)のマークを天板に焼付けたものもその年に入荷していた。
前記(五)の(イ)、(ロ)のラベルを貼つた箱も同年中の入荷に使用された。
当時の同商店への被告【P1】の入荷高は月々二十五万円程度であつた。
(ニ) 前記【P22】方には、遅くとも昭和三一年春ごろから「ギンレイ」のシールを貼つた被告【P1】製品が、同年夏ごろからは別紙(1)、(2)のマークを焼付けた製品が入荷していた。
同年末ごろからは前記(五)の(イ)のラベルを貼つた五足入りの箱で入荷されるようになつた。昭和三二年春ごろからは前記(五)の(ハ)のGinrei Sandalという文字をゴム判で押したダンボール箱が用いられはじめた。
被告【P1】は当時【P22】方にも月々二十五万円位の商品を出荷していた。
(ホ) 前記【P14】方には、遅くとも昭和三二年九月ごろには前記別紙(1)、(2)のマークをビニールバンド交叉部分ないし天板のかかと部分に焼付けた被告【P1】のビニール巻サンダルが入荷していた(この点の右【P14】の証言中には、前後動揺し、確信を欠くような表現があるが、前記片岡商店、池田商店の例から見ると、このように判断される)。また前記(五)の(イ)のラベルを貼つた五足入りの箱も、そのころには入荷していた。
(ヘ) 前記山忠商店、毛利商事、【P23】、石川屋商店などにも、昭和三一年から昭和三二年にかけて、
商品またはその箱などに「ギンレイ」、「GINREI」等の文字や山の図案などをつけた被告【P1】の製品が出荷され、各地の小売店に卸売されていた。
(七) 前記認定の各事実に、証人【P6】の証言により成立が認められる乙第一、二号証、証人【P24】の証言により成立が認められる乙第三号証、第四一号証、証人【P24】の証言を合わせてみると、被告【P1】は、原告がその商標「銀嶺」の登録出願をした昭和三二年一二月二三日以前に二年近くの間静岡、東京、名古屋その他において、商標「ギンレイ」「GINREI」を同被告製造販売にかかる履物サンダルを表示するものとして使用し、昭和三二年末当時にそれが被告【P1】の製造販売するサンダルの商標として各地の需要者である履物卸問屋および一般小売店の間に相当広く認識されていたものと推認することができる。
そして後記のような原告の登録商標「銀嶺」が必ずしも需要者の間に著名であつたとは認められないことを考慮すれば、類似商標先使用権の一要件として「広く認識されていること」は、本件の場合、右のように推認し得る程度をもつて足りるというべきである。証人【P25】、同【P26】、同【P2】の各証言および原告代表者尋問の結果中、これらの者が被告の商標の存在を知らなかつたと述べている部分があるが、その程度ではいまだ右の結論を左右するには足りない。なお成立に争いのない甲第五号証の一ないし六によると、被告【P1】が昭和三〇年当時カネ徳という商標(被告会社の現在の商標と同じもの)を使つていたようにみえるが、証人【P6】の証言によると、その当時のカネ徳というのは被告【P1】の屋号であつて、商標として使われていたのではないこと、同被告が商標を使いはじめたのは昭和三一年になつてからであること、が認められる。
(八) さらに前記各証拠に加えて、成立に争いのない乙第七号証の一、二、乙第八号証の一ないし四、証人【P6】の証言により成立が認められる第一二号証の一、同三、第一三号証、第一四号証の一ないし三、同四の一、二、同五ないし一〇、第一五号証の一、同二の一、二、第一六号証の二、第一七号証の一、二、第二九号証、第三〇号証の二、第三一ないし三三号証、第四二号証の一、二の各一、
二、第四四号証ないし四八号証、第五一号証の一ないし六、第五二号証、第五三号証の一ないし四、第五四号証、第五六号証の三、第五八号証の一、二、第五九号証の一の一、二、同二、三、第六一号証、証人【P4】の証言により成立が認められる第四三号証の一、二、証人【P27】の証言により成立が認められる乙第一二号証の二、証人【P4】、同【P27】、同【P28】の各証言、証人【P2】の証言および原告代表者尋問の結果の各一部を総合すれば、被告【P1】は昭和三三年以降静岡履物新聞、ゴム商工新聞、履物春秋などの業界紙に継続的に広告を出し、
本件商標をもつて自己の商品を宣伝し、ダンボールケース、紙箱、各製品にも前記のような方法で本件商標を表示して、その使用を続けていたこと、その間昭和三三年ごろからビニール類を主材料とするケミカルサンダルの生産へ全面的に転換し、
昭和三九年一〇月一日からは被告【P1】の個人営業を法人化して設立された被告会社(代表者は被告【P1】)が被告【P1】の業務一切を引継いだこと(この点は当事者間に争いがない)、被告会社は引続き昭和四一年に至るまで、本件商標の使用を継続したこと、被告【P1】は本件商標の使用をはじめて以来昭和四一年に本訴が提起されるに先立つて原告から内容証明郵便による申し入れを受けるまで、
原告が「銀嶺」なる商標を使用している事実もそういう登録商標が存在する事実も全く知らなかつたこと、被告【P1】ないし被告会社の取引先はこの間に相当拡大したが、それら取引先のうちで原告の存在を知るものはほとんどなく、原被告の製品が直接競合する機会はなかつたこと、一方原告が「銀嶺」という商標を用いはじめたのは昭和二六年ごろで当時は鼻緒を専門に販売し、昭和三二年ごろからサンダル等の履物の販売をはじめたものであること、以上の事実をも認めることができる。
もつとも成立に争いのない甲第五号証の一ないし六、原本の存在および成立に争いのない甲第六号証の一ないし三一によれば、原告が昭和二七年以来昭和三〇年末に至るまで継続して、業界紙である東洋履物新聞に「銀嶺」という商標で製品の広告宣伝をしていたこと、昭和三〇年発行の「全国履物業者総合名鑑」の鼻緒メーカーの部に原告の商標が大弘印銀嶺として紹介されていることを認め得るけれども、
これだけでは被告【P1】が原告およびその商標を知らなかつたと認めることが妨げられるものではない。
そうすると被告【P1】および被告会社は本件商標を使用するについて不正競争の目的を有せず、かつ昭和四一年に至るまで継続的に使用していたものということができる。
(九)以上みたところによれば、被告【P1】および被告会社は、後記のように本件商標の使用を止めるに至るまでの間、本件商標を使用するについて、商標法に定める先使用権の要件をいずれもそなえていたものというべきである。
四、次に被告会社が昭和四一年一二月七日、商号をギンレイ株式会社からカネトク工業株式会社に変更したことは当事者間に争いがなくこの事実と証人【P6】の証言によると、被告会社は、昭和四一年に本訴が起こされる前、原告からの通告書で原告が「銀嶺」の商標権を持つていることを知り、需要者の混同を防ぐため本件商標の使用をやめることを決意し、かねて被告【P1】が屋号として使用してきた「カネトク」という名称を商標として採用することとし、同年五月右商標の登録申請をし、商号も前記のように変更したものであること、「カネトク」の商標はそのころ登録され、以来被告会社は「ギンレイ」、「GINREI」の使用をやめ、再びこれを使用する意思を持つていないことが認められる。
五、原告は本訴において被告会社に対し本件商標の使用差止を求めているが、右のように被告会社が既にその使用を止め、再びこれを使用する意思を有しない以上、
差止を命ずる必要性を認めることはできないから、右請求は失当で棄却すべきである。
また商標権侵害に対する損害賠償の請求については、前記のとおり被告【P1】および被告会社は、本件商標を使用していた期間を通じて、その先使用権を有していたものであるから、原告の商標権を侵害したことにはならず、したがつて右請求もまた理由がない。
よつて原告の本訴請求をいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第89条を適用し、主文のとおり判決する。
裁判官 水上東作
裁判官 山田真也
裁判官 三上英昭